戦術ゲームについて思うこと

 戦術を駆使して勝利を収める!といったゲームにおける戦術というものが、そもそも、物理的に(心理的に)よくシミュレートされた戦場における実際的な戦術を指しているのではなく、単にそのゲーム内における最適解でしかない場合がある。それもたしかに戦術なのだと言われればその通りで、それはその特定のゲームに対してのみ有効なものであるにしても、しかし目的達成のための方策として、戦術とは言える。だから「戦術を駆使して云々」が、実際に人間を動かしてみた場合に起こる事象についてはまるで考慮していないとしても、その言は嘘ではない。そしてこの問題から免れることは難しく、それによってむしろ、そのゲームにおける解が実際上の問題に対する解と整合している度合の高さ(つまり、リアルさ)こそが、評価の基準となるのかもしれない。

 次に、またそもそもという話だが、そもそも戦争の全体的な趨勢を左右し、たとえば「最初から勝つ/負けるとわかっているような戦争」における終局の勝ち負けをもたらすものは戦場における臨機応変な戦術の駆使などではない。カンナエでの敗戦を経て、結局ローマは勝ったのである。電撃戦でもいいし、ピュロスを思い出してもいい。関ヶ原の戦いでもいいが、実際問題として、私はこうではないかと思う、つまり、戦術というのは主として負け側の良いところ、格好良かった点を語るための方途で、「特定のスケール感」とはあまり関係がなく、また勝ち側は特に際立った戦術をもたなくとも、新たに発明することなく、摸倣して追い付ける地盤があれば戦争自体には勝てるものであると。

 以前トータルウォーの話をしたことがあったが、またそれについて言えば、トータルウォーのキャンペーンは戦争の始りと終りとを含んでおり、戦争に勝たなくてはならないがゆえに戦術的では無くなるということである。是が非でも戦争に勝たなければならないとすると、細かな戦術を成功させなければならないような微妙な均衡状態で戦争に臨んだりはせず、平押しで圧倒できるほど戦力差があるから開戦する。あるいは勝算ある奇襲攻撃ひとつで一気に終戦に持ち込めるか。とにかく勝てるから、勝ち切れるから始めるのであって、その場合の「勝てる」というのはあやふやな偶然に左右される戦場での振舞を含んではいないのである。そしてまたそれが原則でもある、つまり開戦は局地的な、戦術的な事情だけから決定されるべきではないということ。

 このことを考えるとき、トータルウォーのMODであるDarthMODの作者氏の製作する、南北戦争を題材としたUltimate General: Gettysburgは納得できる。それは戦争の始りと終りを含まず、あくまで戦場というスケールでしか描いていない。戦力は最初から決まっていて、プレイヤーが増強することはできず、プレイヤーが開戦を遅らせることもできない。そうして局限された状況におかれたときに戦術的な行動は可能になる、というよりそれをする以上に効果的な選択肢が喪失されている。すでに眼前にこれこれの敵が迫っており、味方はこれこれである、逃げることはできない、どうするのか? こうなってようやく、眼前の対象に即したスケールで考えることがひらかれる、いまはそうする他はないということになる。そう、そうなのだ、ここまでお膳立てが整わなければ私は戦術家ごっこができない、どうしても戦術以前の問題として可能な限り高いレベルで片付けようとし、それが叶わなければそもそも始めない。この、始めないこともできるというやさしさは確かに明らかに拡がりをもたらしているが、しかし同時にゲームというものの問題の一つと言いうるところでもある。低次の問題に必死に向かいたければ選択肢は奪われていなければならない。

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