耳をすませば 感想文

 まず何かって、主人公の母親と姉の異質さが際立っている。騒音のなかで芽吹こうとするような話で、それに水をやる爺さんや無言の猫、水そのもののような若者が登場する。主人公は好きな人に感化されて物語を書き始めるが、その話はとりあえずいい。言いたいのはこの騒音をたてる、圧力をかける人々を登場させる必要がはたしてあるのだろうか、あるいは登場させるべきなのだろうかということである(しかし後から考えてみると、この問いはそもそもタイトルを否定してしまっているのかもしれない)。彼等の役回りはいわば「お嬢さんが変なんだ」というこの変さというか彼女の変化を指摘することなのだろうが、そのように"理解"されつつ主人公が行くというこの進み行きは、作品を書き上げて爺さんに見せて言葉を掛けられ饂飩を啜るという進行にとっては不要ではないだろうか。それは妨害するだけの無用な対立になっていないだろうか、そのような(善意の騒音にみちた)足場を"必ず経て"主人公は「成長」すべきなのだろうかと私は疑問に思う。
 もちろん騒音のあるほうが聞き取りやすいという効果はあるかもしれない。だが「騒音のなかでの聞き取りやすさ」こそが必然的とは思えないし、それはむしろ騒音によって限界づけられているだろう。……

 物語は終盤にさしかかって陳腐化していく。収斂していくと言ったほうがいいのか。新たな謎はもう生じず、主人公は今後しばらくこの安定しつつある物語(ないし世界)を運行していくことになるのだろう。結婚がどうこうという最後の件は、そういう発想だと思える。だから話は一般としてそこで終るのだし、またそうして幕を引けるわけである。

 とても好かったのは主人公たちの即興の演奏風景である。私も楽器を練習するならこういう地点をめがけたいと考えていた。

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